|
琉歌の代表的な歌人(恩納なべ・よしやつる・赤犬子・平敷屋朝敏) {琉歌概説へ}・{目次へ} |
|
|
|
|
1 恩納なべ |
|
|
|
万葉集をしのばせるような大らかで率直な歌を詠んだ女流歌人、恩納なべ。彼女の実在を証する記録はなく、正確な生没年は不明だが、歌の内容から尚敬王時代(1713〜1751)と推定される。生誕地、恩納村には彼女の歌碑も多く、地元を始め多くの人々に愛されたことを証明している。 波の声もとまり 風の声もとまり 首里天加那志 美御機拝ま 万座毛駐車場入り口の右側に立つ歌碑には、恩納なべの代表的な右の歌が刻まれている。これは、1726年尚敬王が北部巡遊の途中、万座毛に立ち寄った時、村を上げての歓迎のなか、恩納なべが踊りに唱和して詠んだといわれる。「波も風も動きを止めて、すべて静まれ。みんなで首里の王様のお顔を拝しましょう」という歌意。大胆率直にして、転地万物に呼びかけるこの歌からもわかるように、恩納村の美しい大自然が彼女の豊かな歌情を育てたと思われる。この他にも、風紀の乱れを恐れた役人たちが毛遊び(野原や森で男女が集まって雑談したり踊ったりすること)を禁止したことに対し、 恩納松下に 禁止の碑のたちゆす 恋しのぶまでの 禁止やないさめ 恩納村番所の前の松の木の下に毛遊びを禁止する立て札があるというが、まさか、男女の恋を禁ずるおふれではあるまい。又、その間切りの男との交際を禁止する掟を恨んで詠んだ歌、 恩納岳あがた 里が生まれ島 森んおしのけて こがたなさな 恩納岳の向こうは私の恋人の故郷。森を押しのけて、こちら側にしたいものだ。自由恋愛を抑制する儒教道徳を強制したこの時代、恩納なべはそれの屈せず、断固として反対し、個人の自由を主張した歌を数多く詠んだ。「恩納松下に・・・」の歌碑から望む恩納岳は、自然体に表現した彼女の歌と呼応するが如く悠然とそびえ、彼女が踊り、詠ったといわれる万座毛は時代を越え、現在も風が舞い、荒々しく波が岩に砕ける。恩納なべを通して見る恩納村は新鮮で今までとは違った発見が必ずあるように思う。 (『波の声 風の声 第3版』 恩納商工会 青年部より) |
|
|
で |
|
|
|
|
|
2 よしやつる |
|
|
|
吉屋チルは恩納村出身で、家が貧困だったため、幼くして那覇の遊郭に身売りされたという女性である。故郷に悲しい別れを告げ、売られていく途中、比謝橋にさしかかったときに彼女が詠んだ、「恨む比謝橋や・・・」は、わずか十歳前後の少女が詠んだとは思えないほどだ。吉屋チルは1650年、読谷村間切久良波村(現在の恩納村字山田)に生まれたといわれている。その昔、沖縄では貧しい家庭の子供は生活のため、那覇など都会地にある遊郭に身売りされることが多かった。吉屋チルもそのひとりで、那覇仲島の遊郭に身売りされ、遊女となったのである。 恨む比謝橋や情けない人の わ身渡さと思て かきておちゃら 「恨めしいこの比謝橋は、なんて情けのない人か、私を渡そうと思って架けておいたのだろうか」という歌意。自分を売り買いする人々に対してではなく、橋をつくった人への恨みという婉曲な表現方法から彼女の辛い心情が察せられ、哀れを誘う。 たのむ夜やふけて おとづれもないらぬ 一人山の端の 月に向かて 頼みにして待つ約束の夜はいよいよ更けていくばかりで、あの人の訪れる気配はない。ただ一人、山の端にかかる月に向かって寂しく待つわびしさよ。 及ばらぬとめば 思ひ増す鏡 影やちよんうつち 拝みぼしゃぬ とうてい及ばぬ身の恋と思うと、思いは増すばかり。せめて真澄みの鏡に面影だけでも映して拝みたいものだ。吉屋チルの歌の特徴は、技巧的で洗練され、押さえていた感情がほとばしる感があるといわれている。金で買われた遊女にとって自由はないに等しく、チルも又、抱親の命令で他の男性の相手をしなくてはならなかった。その後、チルは十代後半(18、19歳頃)の若さでこの世を去るのだが、仲里按司への思いから、絶食してついに栄養失調で死んだという説と、波の上の崖から投身自殺をした説がある。どちらにしても、幸薄い遊女の悲しい物語として、現在もなお、語りつがれている。 (『波の声 風の声 第3版』 恩納商工会 青年部より) |
|
|
|
|
|
|
|
3 赤犬子 |
|
|
|
アカインコは、沖縄の三味線音楽の始祖といわれる伝説上の人で、その名前の由来は二説ある。その一つは「アカ」は地名で、「イン」は童名(ワラビナー)、「コ」は接尾語とする説。あと一つは、この「イン(犬)」から赤毛の犬との間に生まれたという説である。昔、ある年、楚辺ではたいへんな水不足に苦しんでいた。そのとき屋嘉のチラー(美人)という村一番の美女が飼っていた犬がいつもずぶぬれになってどこからか帰ってくるので不思議に思った村人が犬の後をつけて行くと、暗い岩の割れ目に入っていき、そこで水浴びをして出てくるのを確かめた。これが楚辺の暗井戸(クラガー)で、現在は、米軍の管理する黙認耕作地の中にあり、今でも干ばつにも枯れることなく豊かな水をたたえて農業用水として利用されている。この犬の飼い主チラーの子がアカインコで、幼いころから聡明な子で、青年期にはいよいよ持ち前の美声と音楽の才能を発揮し、雨だれのトンテントンという音を聞いて三味線を考案し、くばの葉の茎で棹を、幹でたいこを作り、馬のしっぽを弦にして三味線を作ったという。アカインコの才能は、首里王城にも認められ、尚真王のもとに仕え、王の命を受けて中国にも勉強に行く。帰沖後は、沖縄中を巡って三味線音楽をひろめる努力をし、その美声と人柄は各地で歓迎されたという。また楚辺には中国から持ち帰った麦や粟、野菜の種をまいて、村は毎年、豊年満作で農家は豊かになったという。以来読谷村では、五穀の神としてあがめ、毎年旧暦の9月20日には、「アカインコ祭り」を盛大に開催している。 (『沖縄文学碑めぐり』 垣花武信・東江八十郎著より) |
|
|
|
|
|
|
|
4 平敷屋朝敏 |
|
|
|
平敷屋朝敏は、今から280年以上もの昔に活躍した和文学者で、組踊「手水の縁」の作者としてよく知られている。朝敏は、幼い頃から、和文学者であった祖父の手ほどきを受け、すばらしい才能を発揮したという。18才のとき、越来王子朝慶のお供として上京、滞在中、仏教や源氏物語、和歌などを学び、近松門左衛門の人形浄瑠璃や歌舞伎、能などに接して多くの影響を受け、生涯に四編(「若草物語」「苫の下」「万才」「貧家記」)の擬古文物語を書いている。ところで、朝敏が生きた1700年代は、薩摩の圧制や大飢饉などで世の中には不正がはびこり、特に農民は重い年貢に苦しめられ、命をつなぐのがやっとという有様であった。そんな時代に朝敏は、士族という自らの身分におごることなく、農民をはじめとして弱い立場の人々に暖かい眼差しを向けることができた沖縄近世史上唯一の文学者だといわれている。 朝敏は、若くして首里王府の役人となり将来を大きく期待されたが、組踊「手水の縁」で尚敬王の怒りをかった。それは、御法度の恋愛物語であり、しかも親(王府)の反対を押し切って夫婦になるという、当時の政治への批判が込められていたからである。さらに、そんなときに、薩摩の在番奉行所に蔡温など政治の中心にいた人々を批判した文書が投げ込まれる事件が発生し、朝敏は、その首謀者として捕らえられ安謝の処刑場で34歳の命を閉じたのであった。 (『沖縄文学碑めぐり』 垣花武信・東江八十郎著より) |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|