133 高離島や 物知らせどころ にゃ物知やべたん 渡ちたばぅれ
読み
タカハナリジマヤ ムヌシラシドゥクル ナムヌシヤビタン ワタチタボリ
作者
平敷屋朝敏の妻・真亀
大意
高離島はさまざまなことを教え悟らしてくれるところです。離島の苦しみ、人の情け、もう十分に思い見ることができました。私の生まれ育った彼の地に、願わくばわたしもこの命あるうちに還りつけますことを・・・
鑑賞
@琉歌「高離節」は、平敷屋朝敏の妻の作歌として伝承されてきました。朝敏の妻の名は、真亀(まがみ)。夫婦とも西暦1700年生まれである。朝敏は封建の世を生きる作家の困難を体現して不幸にも34歳の若さで処刑となり、この夫の処罰の延長として真亀と長女は士族の身分を追われて百姓へと落とされたのであった。<中略>宮城島と平敷屋朝敏の妻真亀との接点は、離島という地理上の苦しさと人間の境涯の苦しさとが重なり逢うところにあり、両者はいわば住んでいた人間と流離の中で住まわった人間の<痛み>の体感において深い結びつきをなしている。この地理と人の魂の二重の綾なしゆえに「高離節」は味わいが深く、従って琉歌上の白眉のひとつとして数え挙げられてよいのである(歌碑建立趣意書より)。             A真亀は、夫・朝敏が王府によって処刑されたことに伴い、士族の身分を追われて農民へと落とされた。王都首里から下り下って、真亀が宮城島と結びついたのは奇遇というしかないけれど、私たちはこの不思議な縁を大切にしたいと考えた。1700年代の沖縄。時勢は暗くまさに激流のごとくであったと言うべきである。貧しい中で接してくれた島の人々。そのムヌシラシに対する感謝の念と、海の向こうにワタッテ、イキタイ切なる願い!ナ、ムヌシヤビタンと悟ってはみても、人の母胎たる<故郷>への思いだけは遂に消し去ることは出来なかったのである。文学と政治と島と農民達。真亀と、島の先人たちの辛苦の時代を解きほぐしながら、高離節の軽やかなテンポに合わせて沖縄の未来について一考を廻らしてみるもよし。この歌碑が、一名<もの知らせの碑>として永く後世に語り継がれることを念願する(碑文説明より)。
節名
高離節
歌の分類・内容
教訓・哀傷・望郷
琉歌碑
有り
ビデオ
有り
引用及び
参考文献
「高離節 歌碑建立,除幕・式典・祝賀のしおり」 「高離節」歌碑建立期成会

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